理想の書店

2017.06.22 11:29|読むことと書くこと
去年の初夏、妹と出雲大社に行った。縁結びで有名なアレである。もっとも(神様視点で)相応しくない縁は切りまくる、所謂縁切りでも有名な処なので、パートナーがいる方は覚悟が必要である。

何度も地図やガイドブックで予習したものの、どうもイメージが掴めない。だけど実際に行ってみると、出雲とその周辺の心地よさはとんでもなかった。出雲大社は公園みたいだし、向かいのスタバも素敵だし(勉強してる中学生がいた。このスタバが生活圏内にあるとは羨ましい)、博物館は撮影OKだし、神門通りは何度往復しても飽きない。出雲に行けばなにか御利益が、ではなくて、出雲に行った時点で個人的には御利益充分なのだった。
そしてここにはわたしの理想の書店があった。

お参りを済ませて神門通りを下ってゆくと、不思議なお店があった。
観光地だから、この辺りはお土産物屋やさんが多い。お蕎麦が名物らしくて、お蕎麦屋さんも屋さんもけっこうある。でも、このお店はそもそも何屋さんなのか分からない。看板が出ていないのだ。
立ち止まって覗くと、本が見えた。それから木の椅子。小物。 カフェみたいな気もする。
おそるおそる入ってみた。何脚か椅子が置かれていて、壁には大判の本が飾ってある。小さなテーブルには紙類と小物。
いちばん多いのは本だ。だけど冊数は少ない。やっぱりカフェなのかなあ。見て回っていると、奥から女性がでてきた。
「あの、ここは本屋さんですか」と訊くと、そうだ、という答えが返ってきた。少し話をした。
今はネットで買う人が多いし、街の本屋さんも大手チェーンが強い。だから差別化を図りたくてこうしているのだとかなんとか。

椅子に座って本を試し読みしていると、妹が探しにきた。ずっと前から読みたかったものと、出雲の神話を扱ったものを買った。
静かで、余計なPOPやポスターがない、ただ本と自分しかいない本屋さんがあれば、毎日だって入り浸るのにと思う。お店に並んでいる本が少なくても、欲しければ注文すればいいのだ。ご主人おすすめの本に出会えて、静かに心地よく過ごせる、本の注文窓口みたいなところ。そんな本屋さんが近くにないかなあ。ないか。

ちなみに出雲の神様はわたしの縁を端から端まで見事にぶった切ってくれました。今後が楽しみですフフ。

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だれのための書店

2017.06.21 13:49|読むことと書くこと
今更だけど本が好きだ。子どもの頃からずっと本を手放さずにここまで来た。

そもそもの始まりは保育園の読み聞かせだった。わたしは両親が共働きで、迎えが遅くなる日が多かった。延長保育の子はひとつの部屋に集められて、特別におやつを貰えることになっていた。おせんべいをかじりながら暗くなった窓に張りついていると、先生が絵本を読みますよ、呼びに来る。お迎えが遅い子は、1冊余計に本を読んでもらえたのだ。お気に入りは『せいめいのれきし』と『からすのパン屋さん』だった。どちらもロングセラーである。
わたしは字を覚えるのが早かった。小1の頃には小4向けの本を普通に読んでいた。更に我が家はテレビは1日1番組と決められていて、ゲームは禁止だった。妹は祖母の影響で手芸にはまっていたけど、わたしは国宝レベルのぶきっちょだった。正直に白状すると、今も玉止めができない。自分がやると必ず緩むかきつくなるのである。なぜだ。
そんなわけで、わたしは自然と読書に没頭するようになった。父が全集やら事典やらなんとか百科やらを買う人だったし、保育園では週に一度(以前年数回と書いたが母に確認したところ、週一だった)業者さんが本を売りに来た。学校には図書室がある。中学に入ると市立図書館も加わって、読む本には不自由しなかった。病気で外に出られないときはネットを利用して本を買っていた。

ここまで本尽くしの人生を送ってきたのだけど、実は書店というものがあまり好きではない。大手の商売熱心なところほど苦手だ。やたら騒がしいし、帯もPOPも好きじゃない。あの買ってくれというか、どうにかして買わせようみたいな雰囲気が嫌なのだ。SNSで出版社や書店のアカウントを一応フォローしても、感想のリツイートやネットスラングを使ったアピールに正直がっかりしてしまう。わたしにとって書物や読書は、商売とか軽ノリといった、世間の騒がしさの対局にあるものなのだ。自分でも勝手かなあとは思う。
雰囲気という点でいえば、大手チェーンではない古書店や、図書館のほうが好きだ。静かだし、POPもちょっとはあるけど書店に比べれば少ない。ナントカ絶賛とかナントカ推薦とかいった余計な帯もない(少ない)。世間や流行というノイズがない状態で、ただ本と向き合うことができる。

昨日久しぶりに古書店に行った。百均のコーナーを覗いたあと、知らない外国の作家のハードカバーを1冊買った。装訂とタイトルと、カバーの見返しの内容紹介で決めた。
本は安い買い物ではない。特にハードカバーは場所も取るから、ナントカ絶賛とかナントカ推薦で安心したいのも、そうした言葉をつけたほうが売りやすいのもわかる。でも、絶賛や推薦しているナントカさんと感覚が合うとは限らないし(自分は大抵合わない)、特に物語は「これはナントカで評判なんだ」という情報を入れて読みたくない。
わたしは、いつもの道を歩いていたら、いきなり空から真っ白い封筒が落ちてきた、というふうに本と出会いたい。本屋さんや出版社が売り上げを伸ばそう頑張れば頑張るほど、書店はわたしにとって、なにか違う、という場所になってしまう。だけど、世の中のほとんどの人間は本なんてあまり読まない。売り上げを伸ばすにはその“普段ほとんど読まないお客さん”の気を惹く必要があるのだから、仕方がないのかもしれない。
自分みたいな、放っておかれても黙ってひとりで本を見つけて読んでいる、なんて人間ばかりなら、そもそも出版不況にはならないのだ。

だけど百軒に一軒くらい、自分みたいな人間のためのお店が欲しい。

と思ってたら去年一軒見つけた。明日はそれについて書く。

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いちゃつき日仏

2017.06.20 14:15|世の中のこと

フランス語検定が終わった。追い込みの勉強はもう終わりだ。結果発表まではのんびりしたい。我慢していた読書をやっと再開できる。さっそく帰りに書店で本を大量に購入し、更に今日は古書店でその倍の本を買った。帰宅すると、郵便受けにネットで注文していた本が入っていた。もうしばらくは読書しかしたくないです、と思ったけど今日もこれからフランス語をやる。ここまで身につけた文法やら活用やら単語やらを忘れたくないのだ。

ネットで注文したのは、フランス人女性と結婚した漫画家さんのエッセイ漫画である。
わたしはエッセイ漫画はあまり読まない。手にとりたいものが少ないし、読んでみて面白いと思えるものが少ないからだ。
でも、この人、ジャンポール西さんの作品は『ふらんす』の連載から入ってこちらの試し読みではまってしまった。
最初に描かれるのが、日本人とフランス人の恋愛観の違いである。奥さんの愛情表現がとにかくすごい。そして、恋愛経験の少ない作者さんとのギャップが面白い。

日本人は、フランス人と比べれば総じて恋愛下手だ。そして人前でいちゃつくのを好まない。自分がするのが恥ずかしいという以上に、いちゃつくカップルは不快だ、という人が多い。“人前でいちゃつく”のは、日本人にとって“ふしだらで恥ずかしい”ことなのだ。

休日に街を歩くと、けっこうカップルが歩いている。手をつないでる人も多い。手つなぎはいちゃつきに入るのだろうか。わたしは病気で眼と手が不自由だった時期があったので、大人同士で手を繋いでいると、具合の悪い人の手をひいて上げてるんだな、思ってしまう。もっともわたし自身は杖と耳で乗り切ったが。

不快さの原因ってなんだろう、と、買い物をしながら考えてみた。ドラッグストアもスーパーもカフェもカップルだらけだから、観察対象には事欠かない。
それで気づいた。他人から見たカップルの不快さって二種類ある。
ひとつはキスとかハグとか、ごくごく軽度に性的なもの。そしてもう一つは幼稚さである。
カップルの行動は幼稚だ。公の場で5歳児みたいにふざけたり、赤ちゃん言葉で甘えたりしている。個人的な印象では、おふざけは男子が、甘えは女子のほうが多い。公共の場でいちゃつくカップルの不快いさは、性的なものと幼児化が入り交じったものなのだ。よく、いい大人は公共の場ではいちゃつかない、というけれど、それは“いちゃつき”の中に幼児化が含まれているからではないだろうか。どうでもいいことを書いてるなほんとに。

愛の国フランスでは、いちゃつきに幼児化は含まれるのか。じゃんぽーる西さんのエッセイを読む限りでは、いちゃつきに幼児化の要素はないようだ。いちゃつきの幼児化要素は日本独自のものなのだろうか。今後のテーマとしたい。(二割本気)

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知の変人

2017.06.19 12:51|わたしのこと
最近の我が家の最大の関心事は、庭作りである。
父が他界して、庭の手入れをする人がいなくなってしまった。わたしも少し花やハーブを育てていたから知識はあるけど、今は体力的に無理だ。もしわたしが元気になっても、成人男性の父と同じレベルで庭を維持するのは難しいだろう。父が丹精していた水仙もあやめもなんだかわからない花も野生に帰りつつある。
このままではまずいと思い、少しずつ庭を整え始めている。父が生きていた頃のような花に溢れた庭にしておくのは難しくても、水仙とバラと紫陽花とぎんもくせいと椿とツツジと梅は最低限維持したい。最低限でもこれだけあるのだった。

そんなことがいつも頭にあるので、つい、よその家の庭にも眼がいってしまう。昨日も、たまたま通りがかった家の庭がすてきで、思わず足を止めてしまった。
その庭には花は一本もなくて、代わりに芝のような草が一面に生えていた。芝にしては丈が高いような気がする。なんだろう、やわらかくて細い、明るい色の草だ。そして、その草地を囲むように、樹が何本か植えられていた。家のカーテンは全部下りていて、空き家のようにも見えた。だけど樹は丁寧に刈り込んであるから、誰かが世話をしているのだ。
写真を撮って家族に送りたかったけど、やめておいた。ネットに上げなくても、無断で他人の家の写真を撮るのはよくない。会ったときかメッセンジャーで説明すればいいのだ。

今はほとんどの人がスマホを持っていて、スマホには大抵はカメラがついている。だから、思いついたらその場で写真を撮ることができる。わたしも空の写真や、バスの時刻表はよく撮ることがある。
写真は便利だ。メモがわりになるし、感動を手軽にシェアできる。だけど、手軽なものは感動や感想もなんだか軽く流れて言ってしまう気がする。どんなところで、どんなものを、どんなふうに、そしてどんな気持ちがしたか、という会話の中での説明は、大切なコミュニケーションなのだ。写真だと、はいこれ見て、すごーい、で終わりである。

と思ったけど、いや、自分では写真でもすごーい、では済まないなあと気づいた。
そもそもわたしは、とにかくなんでも知りたがる子どもだった。祖母はわたしを預かるのを嫌がった。質問責めにあって疲れるからだ。家族旅行に行こうものなら、顎が疲れるまで、あれはなに、これはなに、と話し続ける。
だけど、わたしから見れば、それをせずに済む子のほうが不思議だった。新しいものやヘンな物があれば知りたいし、大抵の答えは新しい疑問を三つとか四つ、下手すれば十以上持ってくる。だから問いはいつもきりがないのだ。わたしはあらゆることに納得しない子どもだった。父の百科事典を読んでも、わかったのは知りたいことの答えではなくて、自分は何が好きで、何に興味があるのか、ということだった。
ほとんどの人には自分ほどの知的好奇心はないのだ、と受け入れるのはけっこう大変で、実はまだ納得していない部分がある。

わたしは基本的にバラエティ番組が苦手だ。(トリビアの泉とナイトスクープは好き)
文字にすれば5ページで済む内容を、面白くもない無駄映像で延々引っ張るのにイライラしてしまう。だけど、あれは尺稼ぎと、知的好奇心がうすい、つまり、そうなんだすごーい、で済ませてしまう人の関心を引きつけるために必要なのだ、と最近気づいた。
とはいえ、知的好奇心がありすぎると自分のような、
「頼むからなにか新しい知識をくれ‥‥」
と常に眼を血走らせている知の亡者になってしまう。
なんでもほどほどのほうが、人生は行き易い。気軽に楽しめる遊びも、避けられない辛いこともたくさんあるのに、なくても生きてゆける知識や疑問にこだわるのは、ほとんどの人にとっては面倒だし無駄なのである。
でもごく稀に、生きやすさよりも知ることや考えることを優先してしまう人間がいる。そういう人間を変人と呼ぶ。そうだ、わたしのことだ。
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最近の大人

2017.06.18 08:00|世の中のこと
昨日、朝ファストフード店でカプチーノを飲んでいたら、近くの席に男性の二人連れが座っていた。ずいぶん仲がよさそうだ。友達だろうか、兄弟だろうか。
おまけに子連れである。それぞれひとりずつ子どもを連れているのだ。食事をしながら男性二人はふつうにおしゃべりをしていて、時々「こらー」「だめだろー」なんていいながら子どもの面倒を見ている。なんというか自然体である。
わたしの父はこういうことなしなかったなあ、と思った。色々なところに連れていってくれたけど、いちいちイベントっぽかったのだ。父は仕事や雑用に忙しくいから(父がいなくなって気づいたのだけど、家の管理ってけっこう手間がかかる)、年に数回大がかりに子育てに関わる、というかんじだった。大人の会話も、もっとおじさんくさいというか、なんだか他人行儀で難しい話が多かった気がする。昔の大人は今よりも大人でなければいけなくて、孤独だったのだろうか。たんにわたしが小さかったからそう思えただけだろうか。
父親が自然に子どもと過ごせるようになったのは、子育てをするお母さんからすればまだまだかもしれないけど、すごい進歩だ。大人が孤独でなくなったのも、大人であることを強いられなくなったのも、大人にしてみれば楽でいいことだ。あんなふうに無理なく子育てに関わるお父さんが増えるのは素晴らしい。

ただ、大人をきちんと演じられる人たちがいなくなってしまうこと、大人の幼稚さばかりがネットで垂れ流されてしまうことは、子どもや社会にとってほんとうにいいことだろうか、と思うことがある。

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